じっけん → 漂流瓶

私は長いこと自分のなかにある「問い」が自分の深いところから少しずつ自分でも手の届くところに見えてくるまで悶えながら、混沌とした思いを元に実験を繰り返し作品を作ってきた。そんなプロセスを『じっけんのじっせん』でワークショップの受講者と共有する。そしてその10日後に、自分の実験を元に作った『私的解剖実験−6 〜虚像からの旅立ち〜』を再演。再演とはいえ、人数も上演時間も変わるため多くの試行錯誤を経て生まれ変わりつつある。これは、実験を元にした作品の中でも限りなく実験そのものに近い。さらに、この作品が元になったある指示書から二人の国籍の異なるアーティストが実験を試みる。限りなく実験と祈り、儀式、祝祭の混在した場となり、STスポットが不思議で知的な混沌の中に巻き込まれるだろう。


じっけんのじっせん
~手塚夏子ワークショップ参加者による実験の試み~

出演
手塚夏子ワークショップ参加者
日程
711日(火)・12日(水)
両日とも18:30開演
料金
1,500円(二日連続 2,000円)+各日1ドリンクオーダー
7.11 TUE
18:30
7.12 WED
18:30
         開演の30分前から受付開始、10分前から開場いたします。
         「実験」の内容は両日で異なります。また、ワークショップ生に実験への参加を促される可能性があります。積極的にご参加いただけるとありがたく存じます。
SCOOLにて本年4月より三ヶ月にわたり行われた手塚夏子ワークショップ「体の観察/感覚の発見/視点を変える」の最終段階として、それぞれの参加者が実験を作る取り組みを発表します。参加者それぞれの今抱えている問いを実験に落とし込むこの取り組みは、物事を見る視点を変えながら今起きつつあることを映し出すメディアともなっていくでしょう。見たり実験に巻き込まれたりしながら新たな問いを生みだしつつ様々な可能性を感じさせる時間をご堪能ください。
http://scool.jp/event/20170711/

ワークショップ生による
実験に落とし込もうと思っている「問い」
原初の死者とのコミュニケーションの形はどんなものか

身体の動きは欲望に少なからず直結することを前提とし、自分の無意識の身体を知ることで自分の中の本当の欲望を知り、自分をより知ることができるか。


最近、ウソについて考えることがあります。人を傷つけるために言うのじゃなくて、相手のことも思いつつ、
言ってしまうような。例えば。仕事先の飲み会で、映画鑑賞が趣味です、と言った時に、相手が良かれと思って、「どんな映画が好きなんですか?」と言ってくれた時。自分の一番好きな映画を答えるのは、相手は見ていないだろうし、自分の恥部を見せるようなところもあるから無理。この人が知ってて、言っても恥ずかしくないような作品、、と考えていくことになるのですがそれはすでにウソになってる気がします。それを辞めたいとは思わないのですが、それをうまくできた方がいいのかといった葛藤?があるのでそれを形にできたらと思います。

自意識と無意識の関係を観察する

目であやつる、目であやつられることの反応は

念力はあやふやなのか、強いのか、どのくらい伝わるのか


なぜ、今住んでいる場所を選んで住んでいるのか

声の内発性について
声の外発性について
まあるい声、四角い声、とんがった声、重い声、軽い声。
声をイメージして発すると、伝わるイメージは変わって来るのか。
発するイメージを伝えた組と声色の真似をした組では伝わるものは違うのか。


自分の好きなものは、それ自体が自分のアイデンティティとなるのか

【人間 ? についての問い】何故蓄積しようとするのか/積極的に失い積極的に忘れたくないか/思い出せない時の言葉の失い方//思考のじっけん・思考しないじっけん/何によって思考は過ぎるか/過ぎるきっかけは自分が何を怖れているか?/思考しないでただものを"見る"ことと発語までの距離//私・あなた一人の命ですか?/ずれる/命をずらすことを見留められるか//びっくりした時に出る声が私か/びっくりした時に出る音を集めて弛んだ身体に合わせて出してみる、びっくりしたダンス/それを自分は・他人は許容出来るか//まだ大丈夫まだ大丈夫でどこまでいくのか暴力。その暴力を行う時の内部//もしかしたら私の、見た目の私は、見た目の私に乗っ取られているのではないか/とことん乗っ取られてみるか//奨学金はわたしか?



時々の波はありますが、私はよく、自分の見た目と中身がちぐはぐな気がしています。
大体同時に存在している以下ーー身体のどこかで渦巻く言葉と、視界が映している色々、は、それぞれ別の私(と私が思っている何かの集合体)のイマの状態である、というように感じることがままあります。
それで私は、「渦巻く言葉のほうが、私がわたしと思っている魂に近い。身体頑張れ」と思ったり、「今の身体の様子から考えると、わたしはどうも○○のようだ。身体正直。信頼出来る凄い」と思ったりしながら日々を過ごしていますが、わたし、とか魂、とつい言ってしまうような自分の本体的な何かがあるのか謎です。でも何か、何故かあると思ってしまう。
もしかしたらわたしの、見た目の私は、見た目の私に乗っ取られているのではないか
(→社会や環境や血肉によって形成されてきた私の外見は、魂の容器であるわたしの身体をジャックしつづけている?)

・・・という心身への謎をもとに、”ナマの魂のようなものは本当にあるのか”、”人類は乗っ取られ続けているのではないか”、”乗っ取られ要素を抽出してズラしてみる”などの問いとじっけんを考えてみます。

わたし、は、わたしを知っていると思う。
しかしわたしは、一度も、わたしの顔を自分の目で見たことがない。それは身体にしても、わたしの目の届かないところはたくさんある。
わたしはいつも、鏡に映るわたしをわたしだと思っている。
わたしの、固有性を意識するわたし観は、わたしの表層、形に強く影響を受けるはずだ。
アリ一匹一匹に顔立ちがあり、それぞれが違って見えたら、はアリを"それら"として見なくなるだろうか。

逆に言えばわたしはわたしを、わたしの顔立ちを剥ぎ取ることで、つまりアリを見るような仕方で、わたしを見ることができるだろうか。


『漂流瓶プロジェクト第一弾
 ~それは3つの地点から始まる~』 共催
721日(金)~23日(日)
Floating Bottle Project vol.1 Three points in the flow
ここに、手紙と指示の入ったボトルがある。
そこには、西洋近代化とそれ以前の価値観をもう一度観察することについての指示が書いてある。
そして実験を繰り返しながら、現代を生きていくための芸能を立ち上げて行くことが示される。
近代化以前の芸能や儀式をリサーチしてきた3人のダンサー、
手塚夏子(日本)、Venuri Perera(スリランカ)、YeongRan Suh(韓国)による3つの作品。
出演:手塚夏子 萩原雄太(手塚夏子作品) Venuri Perera YeongRan Suh
音響:牛川紀政
日程:2017721日(金)~23日(日)
21日(金) 20:00
22日(土) 14:0019:00
23日(日) 14:00
料金:前売3,000円 当日3,500
会場:STスポット
共催:NPO法人STスポット横浜
助成:公益財団法人セゾン文化財団
協力:2015 Singapore International Festival of Arts
Floating Bottle Projectウェブページ
手塚夏子インタビュー